目には見えないサブラクセイションやイネイトインテリジェンス(SHE)を
その世界観の中心に据えるスペシフィックと
数字やエビデンスでのみ人間を管理する分野との違いについて
考えることがよくあります。
簡単に言えば見える世界とそうでない世界。
ということで今回は
物質とそれ以前の世界というやや派生したお話にお付き合いくださいませ。
今の時代はかなり変わってきているものと思いますが
深層的には唯物論的な空気はやはり随所に感じます。
ただそれも我々人間がこの世に放った言葉であり思想、現実です。
「そういう要素も私たち人間は持っているのだ」ということでしょう。
大切な分かれ目は「建設的・創造的かそうでないか」というところでしょうか。
ところで日本は法治国家です。今更申し上げるまでもありませんが。
法により様々な歯止め・規制が為されております。
それによって私たちは毎日平穏な暮らしが出来ているとも言えます。
ただ、法が出来ればその抜け道を探ってしまうのもこれまた人の性。
その実相は笑って済ませられるようなことから、凶悪な犯罪まで日々複雑化
しています。
「バレなければ大丈夫」の範囲が他人の生命・財産に及ぶところまで
たやすく超えて来ているように感じるのは最早私だけではないでしょう。
自治体は何か事が起こるたびにその都度法制化を検討し
立法化を計っていきます。
泥縄式のようですがそれはそれでやむを得ず仕方のない事でしょう。
社会と言う生き物の側面です。
アジャストメント前
アジャストメント後
昔、道徳の授業というものがありました。もちろん学校で。
(今も残している学校はあるようですし多様なご意見があるようです)。
様々な例を挙げて「人としてどう考える」ということを教室の皆で
意見を出し合う感じの授業であったと記憶しています。
これ、私個人的には非常に価値のある時間ではなかったかと今改めて
思います。
善悪や割り切れないものごとの判断基準をここで学んだ気がします。
今の私の行動が伴っているかは別として・・・。
法に完璧さは求められない。法で人間を完全に規制することなどは恐らく
出来ないでしょう。
人間の心というものは海よりも深く可塑的ですから。
では法は不要か、といえばそれはありません。今の処は。
法が無い世界、つまり無法はさらなる無秩序を産み出します。
不完全な法でもやはり必要だと考えています。
道徳の授業はあくまで一例であり それでなくても構わないと思いますが
“心の醸成”をなすことで法の不完全さを補完することは目指せるのでは
ないでしょうか。
物質がものごとの方向を決定するのではありません。
鋭利なナイフも単なる“そういうもの”に過ぎません。
使い方によっては大変便利です。
手にした人の心がそれを結果的に凶器にしてしまったり、
デザートを切り分ける道具にしているかを決めているのです。
多くの方が登録している「LINE」やメール、他のSNSも同じです。
それを手にしたひとの心がその方向と結果を決めているに過ぎません。
心地よい意思の伝達か、そうでないか。
法、規則という見える規範だけでのみ調和、平安を保とうとすることに
無理が生じているならば
そこに互いの道徳のような見えない観念による自律が必要ではないかと
思うのです。
さて皆さまは如何お考えでしょうか。
私たちはスペシフィックを通じ 様々な「その価値」について
共に思考して参りたいと思っております。
写真は50代男性。 原因不明の不定愁訴、体調不良、心臓への不安(動悸)等を
お話して下さいました。
1回目のスイッチは入れました。 あとは内なる叡智(SHE)の
働きを観てみたいと思います。
今回はスペシフィックを考えるなかで社会との相似性を綴ってみました。
様々な方面から「お前が法や道徳を説くな」という鋭利なご指摘が聞こえてきそうです(笑)。
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