髪の毛(体毛)や爪の伸び具合
身長の伸び方、心臓の拍動や 唾液や汗の出方。
このうち私たちが自分の意思でコントロールできるものは
何ひとつありません。
呼吸やまばたき、尿意、便意なども
一時的にコントロールできますが
ほぼ無意識のうちにおこなわれています。
ただ、どれも私たちが生きてゆくのに
欠かせないものばかりです。
つまり私たちは「無意識の自分」に生かされているのですね。
もう数十年前(そんなにまえでもないか:^^)
私が中学生だったころ 某理科の先生に
「私たちは生かされているんだ。生きているんじゃない。」
と教わりました。
が、正直意味が分かりませんでした。
「何を言ってるんだ、この先生。
まぁおごらず謙虚に生きろってことかな。」程度に
とらえていました。
もちろん人間は社会のなかで本当にたくさんの方々に
支えられ助けられながら生きてゆくことができています。
ですから中学生の私の受け止め方も間違いではないでしょうし
その気持ちを忘れてはいけません。
ただそれ以前の生命の維持という話になると
先に述べたような活動がなければ人間は数分も生きていられない
わけで、まさに生かされているわけです。
そしてそれは無意識というもうひとりの自分が
絶えずおこなってくれていることで
「わたしは自分の力で生きている。」と考えるときの
自分、わたしではないわけです。
生きるということを維持するのに必要ないくつもの活動を
すべて同時にかつ完全な形で表現してくれている何者かが
確かに存在するのです。
私を含め 皆さんひとり一人の中に。
私たちがどんな状況に置かれようと、ただ粛々と 黙々と
ひたすらにその命を維持しようとしているのです。
私たちの心持ち一つで如何様にもその力を発揮してくれています。
人工知能がどれだけ発達しても生命を作ることは
まだできません。
しかし人間のみならず生命は新たな生命を
生み出し 維持させる「完全なる何者か」を
同時に授けることが出来るのです。
最近お話させていただいた方(女性)が
仏教に大変精通された方でしたがこのようなお話を
したときに「いまはじめて腑に落ちた」と大きく頷かれて
いらっしゃいました。
何か感じられるところがあったのでしょうか。
また、「仏教では調和ということを重んじるのですよ。」
ということも教えてくださいました。
親から授かったもうひとりの自分のことを
心のどこかでいつも認識するということでしょうか。
生きているのではなく生かされている。
自分を信じる。
今日はわたし流の解釈でお伝えしてみました。
あたらしい環境に向かって巣立っていく皆さんにも
伝わるといいなと思います。
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