基準




少々過去の記事ですが引用させて頂きます。

端的に言えばこの検討の悩みの種は「基準」です。

○○を基準にしてものごとを考える

という場合の基準です。


考え方の基点、前提とでもいうものでしょうか。

調べると「行動や判断の拠りどころとなる数値や物」

とも書いてあります。


今回の記事内容はその基準の存在が

「そうでないもの」の存在を産み

反感や対立の構図を産む結果になり

言葉探しの袋小路に入り込む原因となっているようです。

逆に言えば 

この状況をつくった出発点ともいえる基準が無ければ

この「袋小路への検討」も必要なかったでしょう。

何でもありなのですから。

基準という概念は当然ながら

この医療に限った話ではありません。


様々な分野に既定の基準が存在しますし

どの共同体にもかならずついて回る課題です。

それはそこに集うものが共に生きてゆくことを

根底に据えた一種の智慧でもあります。


ただこの智慧の発露としての基準が

現実として却って共存、共生にそぐわない場合

それはもしかしたらそもそもが

「不自然な方向」への決定であったのかも知れない

ということです。

悪意などはなくてもどこかで不自然な判断を

してしまったのかも知れません。

そしてそれを流されるままに

受け入れたのかも知れません。

判断したそのときはそれで乗り切れたのかも知れませんが

時間を経て振り返ったとき 

当初の目的や目指した姿から大きく乖離していたり

道が逸れた結果になってはいないでしょうか

ということです。


これまでに適応という言葉を何度かここで

お話しして参りましたが

人間にはその置かれた状況にたいし

適応してゆくチカラがあります。

心や体のカタチを変えてゆくという適応もあります。

ときには痛みを伴ったり 苦しさを伴う適応もあります。

(本来なら感じる事でも 感じなくなる という適応も

 あります) 

「気付いてくれ」と そういうサインを出しながらも

生体維持のためにそのチカラは日々働いています。

そのチカラは用意された原因に沿って

その適応のカタチを変えてゆきます。


ほんの小さな原因だけを 

わずかに調整(アジャストメント)することによって

痛みや苦しみといったサインを出さなくなる例がある

というのはそのチカラが存在する証です。


サインに気付き原因を調整すれば

自ずと方向転換してゆくというのは

なにもスペシフィックだけの専売特許ではありません。

あらゆる立場の方々、共同体にあてはまることです。

そしてそこにはそこのアジャストメント 

つまり「調整すべき箇所、調整のしかた」があるはずです。

そして 

ひとや共同体がどのような適応の表現、カタチを

してゆくかは案外 自律的に決められるものです。


その為には今の基準を

「そもそもこれでよいのだろうか?」と

個々が考えてみる事が大事です。

それがひいては思わぬ全体の変化につながってゆきます。

それが「他律的に」嵌められていた基準であったなら

そこから脱却して

新しい適応のカタチへ一歩踏み出せることに

繋がります。


この「他律的な基準」というもの。

私たちの意識の相当広く深いところにまで

染みわたっているようです。

いわば潜在意識の領域。

数字、数値といった道具でも 

相手に持ってもらう印象は変わります 

目的や使い方によって。


この印象の連続で意識の色も変わってきます。


これまで何によって 

いつから どのくらい どのような色に

染められてきたのでしょうか。


ここをどのように染め変えるかで

これから先

私たちの生活は一変するのでしょう、きっと。


人体の話からやや話を広げてみました。


毎度の事ですが(^^)。



「他律的」

自らの意思によらず 他からの命令 強制によって

行動すること。他の領域によって支配されること。

⇔ 「自律的」

デジタル辞典より

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