「伝える」


「伝える」ということについて考えることがよくあります。


以前にも当ブログで同様の内容を書いたかもしれません。


アジャストメントは相手の体に私が「何か」を伝える事で


相手の体が反応し変化を始めるわけです。


そこに価値を認めて頂いて成り立つ仕事です。


この原則は他の職種でも成り立つことがあるでしょう。


歌手や音楽家のかたは歌や音楽を聴衆に伝え 


その反応になにかの価値が生まれ お仕事として成り立つ。


芸術家はその作品を以て観る者へ何かのメッセージを込め 伝える。


お料理も 作る側にその気持ちがあるかないかにかかわらず


食べる側に「何か」が確実に伝わります。


必要な栄養を体に直接伝えることで価値が生まれる側面もある。


テレビ番組や映画といったものにも「込められた何か」が必ずあります。


それが見る側の意識や潜在意識にどう伝わるかは受け手次第。


大工さんや建築に関わる方は その建築物を通し


「素敵~」とか「快適だな」とか「便利だわ」


といった いわば感動にも似た気持ちを呼び起こす何かを伝えています。


私たちの生活の中でもっとも身近な伝える手段「言葉」。


さらに言葉そのものを伝える「道具」が多様化していますし


これからも変化(進化)し続けてゆくでしょう。


その変化に私たち自身がついていけているのか考えることがあります。


(少なくとも私はついていけていない。

・・というよりアレは使っていない(++))


要はそれらを「使っている」のではなく「使われている」のではないか、と。


(私が使えないから愚痴を言っているのではありません 決して)


使ったはいいが 思ったように相手に伝わらないもどかしさ じれったさ。


その一瞬の感情から来る次の展開は


誤解 怒り あきれ そして 憎しみ 争いまで発展することもあります。


赤ん坊なら泣いて大人に何かを伝えようとしますが


大人はなかなかそういうわけにもいきません。


・・・そういう方もときどきいらっしゃるようですが・・・。



これは「道具の進化の割に 国語力が適応し切れていないのでは?」


ということに端を発した話でしょう。


国語力 それは 伝える力。


大人になってゆく過程で やはり必要程度の国語力は身につけるほうが


よいのでしょうね。 


「私」「おれ」「吾輩」「当方」「それがし(古!)」「自分」・・・


「貴殿」「あなた」「貴様」「君」「おい」「お前」「お宅」・・・


意味が同じ言葉でも 相手に蒔く種 伝わるチカラ が違います。


日本語の語彙数は世界でも相当多い位置につけています。


全てを覚えるのは至難の業ですが


「言葉は状況によって使い分けられるもの」であり


日本語はその数や種類が世界でも最高峰レベルで豊富にある


という意識をもつだけでも


思考が豊かになります。


母国語力がおたがいに上がることは 


おたがいに豊かな思考が持てるということ。


外国語力の前に そして 道具に手を出す前に まず母国語力。


(アレをもつことが目的ならお話は別なのですが 

 
好ましい関係を築くことが目的なら


必ずしも道具が無くても案外イケますよ。


もちろん 道具とともに伝える力が上がればよいのでしょうね) 


物に意識を奪われずに まずそれを使う内面からということでしょうか。 


ものごとの結果も変わるということにつながります。


国語力は伝える力。 


この冬 伝える力を磨いて ご縁を出会いに変えましょう。


おからだの伝達力もおわすれなく。 V^^




最近お話させて頂いた方(70代女性)に最近頂いた本。


T様の語り口調 味わいがあって聞いててとても楽しいです。 


ありがとうございます。


*インターネットはやってないとおっしゃてましたね そういえば。

 

この小説は私に何を伝えてくれるのでしょうか。


(まだ読んでいませんでした;^^。)

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